今日もワクワクにまみれているかい? OSOTO副社長のごっちです!
はじめまして!
合言葉は
「今日もワクワクにまみれているかい?」
OSOTO副社長のごっち(香川智彦)です。
昨日のOSOTO社長ゆかんこ(渡部由佳)に続き、自己紹介をさせていただきます。
1982年9月生まれ。出身は(名前の通り)香川県。
(実はOSOTOは1982年生まれの同い年の二人が立ち上げました)
父の転勤の都合もあり、愛媛県八幡浜市が長く、幼稚園~小学校の8年間を八幡浜で過ごしました。
その後高松で中・高・浪を過ごした後、大学は京都へ。就職を機に上京し、東京は13年目です。
◤私の原体験◢
私にとって、幼少期を過ごした八幡浜での8年間が、OSOTOのキーワードでもある原体験として大きなウエイトを占めています。
住んでいたところは、
・目の前が川
・裏が山
・少し行くと海
とまさに自然に囲まれたところでした。
夏にはカブトムシやクワガタを捕まえたり、
目の前の川では魚を追いかけたり釣りをしたり、
堰を作って追い込み漁をしてみたり、
裏山では勝手に人の山を切り開いて秘密基地を作ったり、
竹や木の棒を切ってきて、鎌や小刀で弓矢や木刀を作ったり……
当時の自分にとってのアイドルはジャニーズなんかではなく、川の主のようなカメ、でっかいカエル、自分の身長よりも長いアオダイショウでした。
そして、そんな私の興味と知識を伸ばしてくれたのが、両親が与えてくれた数々の図鑑と、それを使った自由研究でした。
ちなみに、私は川の石をひっくり返してついている生物を見ると、その川の水質がほぼわかります。
これは、小学校の自由研究で、四国中の川の生物と沈殿物とpH値の相関性を調べたから。
他にも色々な自由研究に取り組みました。
それらの経験が、
複数の事象を観察し、共通性と相違点を発見し、他の事象に適用する
という所謂「論理的思考」を鍛えるのに役立ってくれたと感じます。
遊び・体験と知識の融合。そして知恵への昇華。これは、まさにOSOTOが掲げる、全力の自然体験を通じた学びの獲得を実現したものではないかと思います。
そんな私がなぜOSOTOを立ち上げるに至ったか。少し長いですが、自分の経験からお話しさせてください。
◤病気を経て知った恐怖と、挑戦することと、自分にとって本当に大切なもの◢
「あー、骨が腐ってますね」
家の近くにある整形外科でのことでした。
「ほら、ここが帯状に白くなっているでしょ? これは骨が壊死しているの。病名としては『特発性大腿骨頭壊死』で、ステージは4段階中の3まで進んでいるね」
MRIの映像を見ながら、医者は淡々と説明を進めていました。「特発性大腿骨頭壊死」とは大腿骨が骨盤とつながる関節部分が壊死してしまう原因不明の病気のことです。
「あなた、ITP(特発性血小板減少性紫斑病)の治療でステロイドの大量服用をしていたんだっけ? まあ間違いなくそれが原因だね」
医者は私の顔をちらりと見ると、追い打ちをかけました。
「ここまでくると治らない。人工骨頭にする必要がある。自転車? ランニング? 言語道断です。運動は全て禁止。今すぐ杖を突いた方がいいくらい。大丈夫。手術してゴルフができるくらいまで回復している人はいるから。人工骨頭ってセラミックだからランニングとかやってると摩耗が早くなってすぐ再手術になっちゃうよ。だから走るのは、無理」
「走るのは、無理」
医者の言葉が頭の中をこだまし、呆然としました。
今まで、俺は、何のために、頑張って、ITPを治そうと、ステロイドをあんなに大量に飲み、苦しい思いをし、あまつさえ脾臓摘出手術までしてきたのか―――
2015年11月、こうして実にあっさりと、それまで最大の自己表現としてきた自転車やトライアスロンを失うことを宣言されたのです。以来、私は(公式には)自分の脚で走ることができない身体になっています。
※2019年1月現在は奇跡的に回復傾向にあります
元々の原因は、2013年11月に血小板が異常に少なくなってしまう病気「特発性血小板減少性紫斑病」(通称ITP)に罹患し、その治療のために副腎皮質ステロイド剤を大量服用したことです。薬が体に合わず、ありとあらゆる副作用が出て、服用開始からわずか3か月で全く動けない身体(風呂場で転倒しても立ち上がれないくらい)になってしまいました。しかも結局投薬では全く改善されず、翌3月に脾臓摘出手術をしたのです。
手術後からは無事快復に向かい、自転車やトライアスロンへの復帰を目標に必死にリハビリを敢行。やがて医者からは寛解を宣言され、2年の闘病の末、2015年9月、ついにトライアスロンを完走しました。
「ついに、ここまで、戻ってきた……!」
↑先頭を走っているのが私です!!↑
最後のランパートを走っているとき、自分の身体がどん底まで悪化していた時のことが思い起こされ、涙で前が見えなくなったことを覚えています。
そして、「次はフルマラソンだ!」と次なる挑戦に胸を膨らませて練習に励んでいた最中のことでした。今度は、大腿骨頭壊死を発症……。
自らの挑戦と自己表現の象徴であった「走る」という行為を、一度は復活を遂げたはずなのに、一度ならず二度も、そして今度は永遠に、突然奪われたのです。
たちの悪い冗談だと思いました。しばらくの間はうまく認識できませんでした。けれど、そこにあったのは、立ち上がるだけで激痛が走る脚という、紛うことなき「現実」でした。
発症後しばらくはさすがに落ち込みました。幸い私には絶望する間もなく強制的に前を向かせようとする妻がいました。
「自転車やトライアスロンが無くなったんだったら他にできることを探せば?」
彼女はこうも言いました。
「足も治るかもしれない。寛解例はある。だから行けるところまで自分の骨でいこう」
妻の強い後押しもあり、ある時からはまるで熱に浮かされたかのように、あらゆることに手を出していました。そんなある日、とうとう私は気がつきました。どんなに興味が移り変わっても、たった一つだけ続けていた、とても大切なものが自分にはあったということに。
そう。この15年間、どんな場面にも、私の手元にはカメラが自己表現の手段として存在し続けていたののです。「そうだ。まだ俺には写真があったんだ……」
そして、プロカメラマン養成講座と出会い、2017年7月1日、私はついにプロカメラマンとなりました。
ここで身をもって学んだこと。それはベタですが、
・家族の大切さ
・死への恐怖、いつやりたいことがやれなくなるかもしれないということ
・自分で道を切り拓くこと
という3つでした。
◤今日もワクワクにまみれているかい?◢
私は今、折に触れてこの言葉を自分に問いかけています。
プロカメラマンとして実際にお金をいただき、本当に「自分の名前でお客様に喜んでいただくこと」を知りました。そして、他者に任せず、責任をもって自分の人生を作っていくことも。
そういう自覚ができ、行動を始めた瞬間世界が変わりました。
全ての人との出会いが、自分の人生を形作っていっていると、本当に実感しています。その関わりの中で、新たな取り組みもどんどん生まれてきています。
OSOTOもそういった一つの出会いから生まれたものでした。
このように、自分で自分の一つひとつの選択に責任をもち、人生を創り出していくこと。それは、苦しくもあり、本当にワクワクするものでもあります。
OSOTOは「教育」の会社でありますが、一番伝えたいことは学校で習う「知識」ではありません。
今自分が感じているような、自分でワクワクを生み出していくチカラが、自分の子どもたちに一番伝えていきたいことです。
我々OSOTOは教育に関して、素人です。
だからこそ、OSOTOに関わる全ての人のチカラで、OSOTOに関わる全ての子どもたちがワクワクにまみれた生き方を学ぶことができるような、場づくりをしていきたいと考えています。
ぜひ一緒に、子どもたちの最高の学び場を創っていきましょう!